ビジネスWi-Fiで会社改造(第39回)
大規模工場でこそビジネスWi-Fiが生きる
公開日:2020.03.30
観光荘(うなぎ料理専門店の経営)
事業承継を果たした経営者を紹介する連載の第14回は、長野県岡谷市で1954年からうなぎ料理専門店を営む「観光荘」。今回は、創業者の息子で2代目社長を務めた宮澤由己(よしみ)会長と、2019年からその跡を継いだ健(けん)社長に事業承継の経緯について話を聞いた。
昭和中期ごろまで諏訪湖から下ってきた天然のうなぎが捕れていたという天竜川には、大きな簗場(やなば・うなぎを捕るための仕掛け)があった。そこで漁をしていた宮澤会長の父が、うなぎ料理屋を創業したのが観光荘の始まりだ。
宮澤会長は東京の大学を卒業後、地元の精密機械会社を経て1977年に観光荘に入社。先代の急逝に伴い、89年に社長に就任した。当時は親族や地元の女性パート社員10人ほどでお店を切り盛りしており、売り上げは9000万円弱。妻の厚子さんが「美人女将」としてテレビ番組に取り上げられたり、宮澤会長が地元の観光協会の役員を務めたりして、地元に密着し人々から愛されるうなぎ屋となっていた。
そんな宮澤家の長男として生まれたのが健社長だ。忙しい両親に代わり、幼い健社長と姉の面倒を見てくれたのは祖父母だったという。
「父はお店と地域の仕事で忙しく、一緒に過ごす時間はほとんどなかった。お店が休みの木曜日だけは、必ず家で一緒に食事をした。それがうれしかった」と健社長は幼少時代を振り返る。
祖父母が不在の日は、きょうだいは学校から観光荘へ帰ってきて、お店の隅で過ごした。うなぎを焼く父、接客サービスをする母、そしてお客さまの笑顔。健社長には自然と「この店は自分が継ぐのだ」という意識が芽生えていったという。
高校を卒業した健社長は、東京に出て大好きだった音楽の専門学校に進み、その後調理師専門学校を経て飲食店のアルバイトを続けた。
「いろいろな業態を勉強したくて、あえて正社員にはならずにお店を転々としました。和食以外を経験しようと決めて、イタリアン、居酒屋、創作料理、カフェなど全部で9つの会社に勤めた。同じ飲食業でも、自社での調理にこだわっている店舗もあれば、セントラルキッチンで効率を重視する店舗もある。また、社員を育て独立させる会社もあれば、長く雇用する会社もある。お店それぞれで大事にしているものが違うことが学べたのは大きかった」(健社長)
一方、息子を東京に送り出した宮澤会長は、「期間は特に決めていなかったけれど、観光荘を継ぐという息子の意思はしっかりしていたので、そのうち帰ってきてくれるだろうと思っていた」と話す。
夏場の繁忙期だけは地元に戻り観光荘の手伝いをして、それ以外はアルバイトと趣味の音楽活動に明け暮れていた健社長。9年間の東京生活の後、2004年に27歳で観光荘に戻った。「音楽活動をやり切ったという思いがあった。だから、未練なく地元に戻ることができた」と話す。宮澤会長も女将である母の厚子さんもお店のスタッフも、健社長が帰ってくるのを心待ちにしていたという。「東京で多くのことを学んだ健ちゃんが、戻ってきてくれる!」と期待して、健社長を迎えた。
しかし、ここから観光荘の“地獄の日々”が始まることになる。
東京から観光荘に戻った健社長は、最初は役職に就かず一社員として働いたが、観光荘の「緩さ」にがくぜんとした。夏場の繁忙期には見えなかった細かい1つひとつがとにかく気になったという。
「数え上げたら切りがない。ホールスタッフがいらっしゃいませ!と言っているのに、オウム返しで挨拶をしない厨房スタッフがいた。こんなの東京では考えられない。空いた時間にはスタッフはみんなでテレビを見ている。なぜ掃除をしないんだとイライラが募った。スタッフが悪いわけではない。統一のルールがないから、みんながそれぞれの判断の下で働いており、バラバラだった」と健社長は当時を振り返る。
鬼のように責め立てる息子の姿に驚いたのは宮澤会長や女将、お店のスタッフたちだ。
「経営のノウハウなど我々にはない。ただ地元に愛されお客さまに笑顔になってもらうことだけを考えて、スタッフのみんなと和気あいあいと家族のように商売をしてきた。健が言っていることは正論だが、モチベーションもスキルも、私たちは到達していない。何を言っても理路整然と返され、みんな萎縮してしまった」(宮澤会長)
この頃は毎日、健社長と宮澤会長、女将とのけんかが絶えなかった。「怒鳴るし理詰めで責めるし、イライラした健が物に当たることもあった。子どもの頃は優しく、反抗期のなかった息子だったが、遅れてすごい反抗期が来た、なんて妻と話していた」と宮澤会長は苦笑いする。
しかし温厚な性格の宮澤会長は、そんな息子に反論することなくただ受け止めた。「私たちの時代は、ただおいしいうなぎを提供し、笑顔で接客していればお客さまは来てくださいました。でも、この先のことを考えたら、健のようにしっかり仕組みをつくりファミリー経営から脱却しなければならないことは理解できた」と話す。
けんかをしながらも、一番の理解者は父だったのだ。影で息子への不満を募らせるスタッフの愚痴を聞き、なだめ、盾となっていた。
社員たちが付いてこないことにもどかしさを募らせながらも、健社長はこの時期に経営に関する書籍を読み、セミナーに行き、経営者から実際の経営とは何かを学んだ。「アルバイトで多くの飲食店を経験したものの、社員ではなかったために経営を学ぶ機会はなかった。知識や経験を補おうと必死だった」と健社長は話す。
時間とともに、少しずつではあるが、スタッフとの歩み寄りを見せていた健社長だが、観光荘は大きなピンチに直面する。2008年、大幅な赤字を出したのだ。これまでは閑散期に資金繰りが厳しくなって銀行から借金をしても、次の繁忙期にはきっちり返してきた。同社にとっては初めての赤字転落だった。
赤字の原因は、海外出店計画に向けた人員増による人件費の圧迫と、役員報酬だった。財務諸表を初めて見た健社長は、その数字に驚愕(きょうがく)したという。累積赤字が1500万円。負債が6000万円。
「繁盛店だったので気付かなかった。売り上げは1億4000万円ほどあって減っていない。ただスタッフの人件費がオーバーしているのと、身内の給与が高過ぎた。すぐに自分の給与を減らし、会長と女将の役員報酬も減額した。海外出店計画も中止した」(健社長)
余った人手に関しては、新たな店舗の出店を検討した。「素人考えで、ただ売り上げを伸ばせば赤字を減らせると考えた」という健社長。東京への出店も考えたものの、車で移動できる距離で人口が多く、ある程度の集客を見込める松本市に2号店出店を決めた。
この戦略は当たった。2010年に出店し、翌11年には黒字化。売り上げは1億7000万円に伸びた。宮澤会長が事業承継を考えたのも、ちょうどこの頃だったという。
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執筆=尾越 まり恵
同志社大学文学部を卒業後、9年間リクルートメディアコミュニケーションズ(現:リクルートコミュニケーションズ)に勤務。2011年に退職、フリーに。現在、日経BP日経トップリーダー編集部委嘱ライター。
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「事業承継」社長の英断と引き際