ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
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公開日:2017.01.20
近年、CSR(企業の社会的責任)の重要性が叫ばれるようになっています。しかし、CSRという言葉がまだなかった明治時代、社会における企業の責任に深く取り組んだ企業人がいました。住友(現・住友グループ)の第二代総理事を務めた伊庭貞剛(いば ていごう)です。貞剛は住友が所有していた別子銅山(べっしどうざん)の公害問題に正面から取り組み、「企業の社会的責任の先駆者」といわれるようになりました。
貞剛は1847年、近江国(現・滋賀県)で生まれました。父の正人は幕府の役人。母の田鶴(たづ)は住友初代総理事・広瀬宰平の実姉で、宰平から見ると貞剛はおいに当たります。維新を経て明治の世になると、貞剛は法曹の世界に入り、函館裁判所副判事、大阪上等裁判所判事などの要職を歴任しました。しかし、媚びへつらいが横行する官職に失望。故郷の近江に帰って村長になることを考えたといわれます。
そんなときに、叔父の宰平から住友で働くことを勧められます。貞剛は32歳、裁判官時代の半分以下の月給での再スタートでした。貞剛は、住友に入社後、さまざまな方面で才覚を発揮します。入社3カ月後には、住友大阪本店の支配人に就任。翌年の1880年には、連載第1回で取り上げた五代友厚、山本達雄(のちの日銀第五代総裁)らと共に大阪商業講習所(現・大阪市立大学)の開校に尽力し、1882年には同所の所長(校長)に就任しました。大阪紡績(現・東洋紡)や大阪商船(現・商船三井)の設立にも参画するなど、大阪を起点として新時代を迎えた日本の発展に力を尽くします。
そうした中、住友から辞令を受けたのが、支配人としての別子銅山への赴任でした。愛媛県東部、新居浜の山麓部にある別子銅山は、元禄時代の1691年に開坑した長い歴史を持つ銅山です。銅の年間産出量は1500トンにも及び、世界有数の銅山として知られていました。別子銅山で産出された銅は海外貿易の決済に使われ、幕府の財政を支えました。明治期に入ると送電線や電話線用の銅の需要が欧米を中心に高まり、精銅は日本の重要な産業の1つとなりました。
しかし、生産量の増加とともに別子では深刻な問題が生じていました。公害です。別子周辺の山林は銅の精錬に使う燃料を供給するために伐採され、荒れ果てていました。また、新居浜にある製錬所から排出される亜硫酸ガスが煙害となり、農作物に深刻な被害を与えていました。1893年には煙害の根絶を求めて農民が激しい抵抗運動を繰り広げる事態となり、銅山と精錬所を運営する住友は対応を迫られていました。そこに支配人として派遣されたのが貞剛だったのです。
実は、貞剛の叔父の広瀬宰平は11歳で別子銅山勘定場の給仕となり、住友への奉公を始めた人物。1866年には別子銅山の支配人となり、銅山の近代化を進めました。叔父が発展させた銅山の運営を、おいの貞剛が継いだことになります。
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