戦国武将に学ぶ経営のヒント(第11回)度重なる不遇にめげず、大輪の花を咲かせた真田幸村

歴史・名言

2016.04.12

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 NHK大河ドラマ「真田丸」が好調です。このコラムでは、第9回に草刈正雄さんが演じる真田昌幸(1547~1611年)を取り上げましたが、今回は堺雅人さんが演じている主人公、真田信繁(幸村、1567~1615年)を紹介します。真田幸村というのは江戸時代の書物や講談に見られる通称なので、本コラムでは正しく信繁と記載します。

 真田信繁は1567年に甲斐(今の山梨県)の武田氏に仕える真田昌幸(当時は武藤昌幸)の次男として生まれました。武田氏の滅亡に伴って、父・昌幸は主君を何度も変えます。信繁は、まずは上杉景勝、次には豊臣秀吉のもとで、人質生活を送ることになります。

 その後、長男・信之は独立して徳川家康に臣従。信繁は父・昌幸と行動を共にします。戦国きっての謀将とも呼ばれた父のもと、いわば“COO”としてバリバリ仕事をこなす中で、信繁は多くの優れた戦略・戦術を学んでいったと思われます。

 例えば、1600年、石田三成による家康弾劾の呼びかけに応じて昌幸が西軍についたため、上杉討伐のために一緒に進軍していた徳川軍から離脱し、上田城で籠城します。徳川軍は約3万人もの兵力で攻め込みますが、昌幸と信繁はわずか3000人で迎え撃ち、敵に大損害を与えています。

 しかし、その後、信繁にとって不遇の時代になります。関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、命こそは兄・信之の尽力もあり、助けられましたが、昌幸と共に高野山の麓にある九度山に配流されてしまいました。その地で1611年、昌幸が病没した後には、かなりの家臣たちが本家である信之の下に去っていったといわれています。そんな信繁に、家康と対決する豊臣秀頼から大坂城入城の要請が届きます。世に言う「大坂の陣」が切って落とされるのです。すでに信繁自身も40代後半。病のためもあり、歯は抜け落ち、頭は白髪になっていたともいわれています。

献策が採用されなくても次善の策で奮戦…

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