戦国武将に学ぶ経営のヒント(第31回)“機を見て敏”に動けなかった柴田勝家の後悔

歴史・名言

公開日:2017.12.12

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 戦国時代には、幾多の武将が覇権をめぐって争いを繰り広げました。そこで必要だったのは武力だけではありません。知力、政治力、統率力が覇権の行方を左右しました。そして、時には好機をつかむ力が運命を大きく変えたことを感じさせるのが柴田勝家です。

 勝家は1522年(1526年説、1527年説あり)に尾張国(現・愛知県)で生まれました。織田信長の家臣として知られている勝家ですが、信長に仕えるまでにひともんちゃくありました。

黒染めの勝家が信頼を得るまでの道のり

 勝家は若い頃、信長の父・織田信秀に仕えていました。1551年に信秀が亡くなると信長が織田家の家督を継ぎますが、勝家は信長ではなく、信長の弟・織田信勝の家臣になります。そして1556年、信長を支援していた斎藤道三が死去すると、勝家は自分が仕える信勝を織田家の当主にしようと、信長に対して信勝と共に兵を挙げるのです。

 この戦いに敗れた勝家は、墨染めの衣を着用して信長に謝罪。死罪になっても不思議ではありませんでしたが、信勝の母・土田御前の口添えもあり赦免されます。勝家は剃髪(ていはつ)し、これ以降、信長の忠実な家臣となりました。1557年に信勝が再び謀反を企てたときは、勝家が織田信長に密告したといわれています。

 この時点ではまだ信長から深い信用を得られておらず、尾張統一の戦いや桶狭間の戦いといった信長の重要な戦いに勝家は徴用されていません。しかし、その他の戦いで武功を重ねるうちに信長からの信用を勝ち得ていきます。そして、敵方から「鬼の権六」と恐れられる活躍を見せます。

 1568年の信長の上洛戦では、織田勢の主力として従軍。1575年には長篠の戦いに参戦します。また同年に越前国(現・福井県)で起こった一向一揆を鎮圧。この功績により信長から越前国を与えられ、越後国(現・新潟県)を本拠とする上杉ににらみを利かせます。

 そして、1582年には加賀国(現・石川県)の一向一揆を平定し、信長から加賀国を与えられました。越中国(現・富山県)の魚津城の戦いでは上杉景勝・直江兼続らに勝利。勝家は越前、加賀、能登、越中の4カ国を支配下に収め、織田家の家臣として最大勢力を持つようになります。この頃の勝家の活躍を見ると、飛ぶ鳥落とす勢いの感があります。

 しかし、ここで状況を一変させる大事件が起きます。勝家が上杉氏方にあった越中国の魚津城・松倉城を勝家が包囲していたさなかの1582年6月2日、明智光秀が謀反を企てて信長を急襲。信長が自害するのです。

勝家にとっての“本能寺の変”…

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