戦国武将に学ぶ経営のヒント(第85回)戦国武将の失敗学② 明智光秀が予期できなかった「人心の離れ」

歴史・名言

公開日:2022.06.13

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 「笛吹けども踊らず」、「旗を振っても兵は動かぬ」。いずれも、奮い立たせようとしても周りが動かない状況を表した言葉です。

 戦国時代、地方での勢力争いでは武将同士が単独でぶつかり合うこともありました。しかし、いくら強さを誇る武将であっても、天下が大きく動くような情勢では自分一人の力では何ともなりません。いかに多くの武将を自分の側に付けるかが、状況を動かす鍵になります。

 運命の分岐点で、自分の味方に付けることに失敗したのが明智光秀でした。光秀は1582年、主君である織田信長に対して謀反を起こし、京都の本能寺で信長を討ちます。この本能寺の変の原因については、光秀が信長に対して恨みを抱いていた、光秀が足利義昭を擁して室町幕府を再興しようとしていたなど諸説がありますが、天下を揺るがす大事件だったことは間違いありません。

 光秀も、信長を討ってタダで済むとは思っていません。信長の重臣らと弔い合戦が始まるのは明白でした。豊臣秀吉を始め、信長の下には力のある臣下が数多くいます。光秀は軍を整えなければ対抗することができません。そこで頼りにしたのが、細川藤孝・忠興父子でした。

 光秀と藤孝は共に足利家に仕え、足利義昭が信長と対立を深めるようになった後信長の臣下に入りました。古くからの同僚であり、盟友ともいえる間柄です。さらに、光秀の娘・玉子(のちの細川ガラシャ)は、藤孝の嫡男・忠興に嫁いでいます。光秀にとって忠興は娘婿、藤孝はその父にあたり、自分の側に付くことを期待するのは自然なことでした。

 しかし、細川親子は信長の死を知ると剃髪してしまいます。信長に弔意を表すというのが表向きの理由ですが、剃髪は俗世間を離れることであり、戦には加わらないという意思表示でもあります。要するに、光秀の味方にはならないということです。

 これに対し、光秀は藤孝に書状を出して説得を試みます。「剃髪したことに私もいったん腹が立ったが」と書いているところに、光秀のあせりが見て取れます。しかし、藤孝の心境は変わりませんでした。

 光秀に味方しなかったのは、細川藤孝・忠興だけではありません。筒井順慶も同じです。順慶は織田家の家臣で、信長の下で働いていた光秀の指揮下にいる与力でした。光秀にとって順慶は部下の1人で、数々の戦場を共にくぐり抜けてきた戦友でもあります。

 光秀は京都にいる自分の下に参じるよう順慶を促しますが、順慶はのらりくらりと態度を明らかにせず、地元である大和から動きません。順慶は洞ヶ峠にはいなかったとの説が有力ですが、これが優柔不断な態度を表す「洞ヶ峠を決め込む」との言葉の元になりました。

味方をつなぎ止められなかった光秀の「人望」…

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