戦国武将に学ぶ経営のヒント(第66回)余計な一言ですべてを失った佐久間信盛

歴史・名言

公開日:2020.11.10

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 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、第30回「朝倉義景を討て」で 織田信長が越前国(現・福井県)の朝倉義景を討つところまで話が進みました。今回はこの戦いにも参戦した信長の家臣、金子ノブアキさん演じる佐久間信盛の生涯を見ることにします。

 多くの方が頭に浮かべる織田家の重臣は、柴田勝家、丹羽長秀あたりで、その名前をもらった羽柴秀吉(豊臣秀吉)や明智光秀といった途中入社組がそれを追いかけるといったイメージではないでしょうか。しかし、実は信盛は、織田家において勝家と同格かそれ以上のポジションを与えられた武将でした。いうなれば、織田株式会社の専務といった要職を務めていたのです。

 それが、現在、上記4人と比較すると知名度で圧倒的な差をつけられ、まるでその他大勢といった扱いを受けるようになったのは、信長の生前に怒りを買って、何もかも失ってしまったことが影響しています。

 信盛は若い頃、信長の父である織田信秀に仕えていました。そして1552年、信秀が死去すると、織田家の家督を継いだ信長に仕えるようになりました。1556年、信長と弟・信勝との間に家督争いが勃発。織田家を二分する事態となります。ここで柴田勝家、林秀貞らは信勝側につきましたが、信盛は前田利家、丹羽長秀らと共に信長側に付きます。信長の軍勢は信勝軍の半分以下という不利な状況でしたが、信長軍はこの戦いに勝利。信盛は信長の信頼を勝ち取り、以降、信長の下で戦いを重ねることになります。

 信長が今川義元と相対した1560年の桶狭間の戦いでは、善照寺砦を守備し、その功により鳴海城を与えられました。1568年、信長が足利義昭を奉じて上洛する途中で六角義賢・義治父子と戦った観音寺城の戦いでは、義賢の箕作城を攻め落とし、信長軍の勝利に貢献しています。

 以降も姉川の戦い、志賀の陣と信長の下で戦い、1571年の比叡山の焼き討ちではその戦功により近江国(現・滋賀県)粟田郡の知行地を与えられるなど、各地の戦で活躍を見せました。

 こうした数々の功によって、信盛は信長の信を厚くしていました。1567年に信長の娘・徳姫が徳川家康の長男・松平信康に嫁いだ時には、徳姫を岡崎城まで送り届ける役を任されたことにもそれは表れています。また、1570年には要衝である近江を守護する役割を柴田勝家らと共に任じられ、永原城に配置されました。六角軍が攻め入ってきた時にはこれを撃退するなど、信盛は信長の期待に応えます。

“ワンマン社長”信長との信頼関係が徐々に崩れる…

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