戦国武将に学ぶ経営のヒント(第95回)どうした家康(3)長篠・設楽原の戦いを勝利に導いた家康の「待ち」

歴史・名言

公開日:2023.07.25

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 NHK大河ドラマの放送期間は、通常では1年。2023年1月に始まった「どうする家康」も中盤にさしかかってきました。6月4日と11日に放送された第21回、第22回で取り上げられたのは、徳川家康・織田信長の軍が武田勝頼率いる武田軍と相対した長篠・設楽原の戦い。初めて鉄砲が本格的に使われたことでも名高いこの戦には、どのようなドラマがあったのでしょう。

 戦いの舞台となった長篠は、三河国の東部(現・愛知県新城市)にあります。ここは三河国と美濃国(現・岐阜県南部)、遠江(現・静岡県西部)を結ぶ交通の要衝であり、長篠・設楽原の戦いよりも前から、その領有をめぐって争いが繰り広げられてきました。

 そこで鍵を握っていたのが、山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれる三河東部の地方領主です。長篠から見て西の作手(つくで)は奥平氏、北西の田峯(だみね)は菅沼氏、そして長篠は田峯とは異なる菅沼氏が治めていました。しかしこの三家の力は決して大きくなく、三河東部に勢力を伸ばした大名にその都度、従っていました。

 長篠の菅沼氏は当初、他の二氏とともに今川氏に従っていました。ところが桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれると、三河統一を進める家康の傘下に入ります。そして甲斐国(現・山梨県)の武田信玄が三河に侵攻して勢力を拡大すると、今度は武田氏の下に入りました。

 そのような中、1573年に信玄が急死し、事態は大きく動きます。信玄の死を好機と見た家康は、武田に奪われた形になっていた三河を取り戻すため軍を進めました。中でも重要なのは、要衝に位置する長篠です。

 1573年7月、菅沼氏が本拠とする長篠城に家康が攻め込みました。信玄亡きあと武田の家督を継いだ勝頼は、のちに武田四天王の一人に数えられた勇将・馬場信春を長篠城に向かわせました。しかし、戦いが始まってから2カ月たった9月、家康は長篠城を攻め落としました。そして、山家三方衆で最も力の大きかった奥平氏に娘を嫁がせて味方につけ、娘婿となった奥平信昌に長篠城の守護を命じました。

 武田氏の跡を継いだ勝頼としては、これを見逃すわけにはいきません。武田の勢力を再び拡大するためには長篠の再奪取が必須。1575年、大軍を率いて三河に侵攻した勝頼は、三河北部にある足助城を攻略。その後は武田信豊、山県昌景と合流して長篠城に軍を進めました。長篠・設楽原の戦いの始まりです。

 このとき勝頼の兵は1万5000。対して長篠城の守備隊はわずか500。長篠城は豊川と宇連川が合流する三角地帯にあり、川と崖に囲まれた堅固な城として知られていました。1573年に家康が攻め入ったときも、落城まで2カ月かかっています。奥平信昌も城の堅固さをもって必死に守りますが、兵力の差は歴然で、城の郭は次々に攻め落とされていきます。このままでは、落城は時間の問題。信昌は主君にあたる家康に援軍を送るよう書状をしたため、忍びの者に持たせました。

自陣の危機に、家康はどんな判断を下したのか?…

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