ビジネスコミュニケーション手法の改善(第10回)
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公開日:2023.10.26
徳川家康の生涯を追うNHK大河ドラマ「どうする家康」。10月8日に放送された第38回と、10月15日の第39回では、秀吉の朝鮮出兵が取り上げられました。この朝鮮出兵に関する家康の動向を見ると、家康独自の大局観が浮かび上がってきます。
1587年、秀吉は九州に出兵し、島津義久ら九州諸将を服属させました。そして1590年に小田原の後北条氏を滅ぼし、全国統一を成し遂げます。全国を手中に収めた秀吉が次にもくろんだのが、明国の征服でした。
秀吉が明に狙いを定めた理由としては、国内安定のため諸大名の資源を浪費させようとした、あるいは諸将に与える知行地が足りなくなったため大陸にその地を求めたなど、諸説あります。また、この頃は南蛮諸国が東アジアに進出し、明の地位が相対的に低下していました。そこで秀吉は明に代わってアジアの覇権を握るという野望を持っていたと考えられます。
明に入るには九州から船で朝鮮へ渡る必要があります。そこで秀吉は経由地となる朝鮮に服属を命じ、軍を通行させるよう求めますが、朝鮮はこれを拒否。秀吉は、明への侵攻を目標とし、朝鮮出兵に踏み切ります。
1591年9月、秀吉は軍事動員の指令を出し、全国から兵が肥前(現・佐賀県、壱岐・対馬を除く長崎県)に集結。1592年3月に16万の兵が朝鮮に渡り、文禄(ぶんろく)の役と呼ばれる戦いが始まりました。
秀吉軍は当初、快進撃を見せ首都の漢城を陥落させますが、明からの援軍や朝鮮の義兵が決起すると物資の補給路が断たれ、苦戦を強いられるようになります。秀吉は明との和平交渉に入りますが、これは決裂。1597年、再び朝鮮半島に派兵し、慶長の役が始まりました。しかし翌年の1598年に秀吉が死去。家康を始めとする大老は諸大名に撤退を指示し、朝鮮での戦いは終わりを迎えました。
家康は五大老の1人に数えられる秀吉の側近でしたが、朝鮮での戦いに加わることはありませんでした。朝鮮に渡ったのは小西行長、加藤清正、鍋島直茂などの西国の武将で、家康や前田利家といった東国の武将は予備軍として肥前の名護屋に控えていました。そうした状況を別にしても、家康は朝鮮での戦いに積極的ではなかった様子がうかがえます。
秀吉が朝鮮に出兵するという話を伝えられたとき、家康は沈黙を貫き、家臣からこの戦いに参加するのかと3度問われてようやく「箱根は誰が守るのか」と答えたといいます。朝鮮への出兵を苦々しく受け止めたと思われるエピソードです。
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