ビジネスコミュニケーション手法の改善(第10回)
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公開日:2024.04.26
武田信玄、織田信長、豊臣秀吉……。戦国武将には強烈な個性を放っている人物が少なくありません。そうした中で異彩を放っているのが、九州の立花宗茂(むねしげ)です。宗茂はある意味、「普通」の人物。普通でも強い。普通だからこそ強い。そうした武将です。
立花宗茂は1567年、北九州の大名である大友宗麟(そうりん)の重臣・高橋紹運(じょううん)の長男として生まれました。
宗麟は一時、九州の半分を支配するほどの力を持ちましたが、1578年に耳川の戦いで島津義久に敗れ、以降、島津氏の勢いが拡大します。この島津氏に立ちはだかったのが、宗茂でした。1581年、宗茂は第二次太宰府観世音寺の戦いで立花道雪(どうせつ)とともに敵将の堀江備前を討ち、翌年の岩戸の戦いでも敵方の早良城を攻め落とすなど、早くからその才を見せつけます。
しかし、宗茂の名を高めたのは、1586年の島津氏との一連の戦いです。父・紹運は岩屋城の戦いで命を落としますが、宗茂は高鳥居城を落城させると、島津軍から岩屋城、宝満城を奪還。島津氏と対立していた豊臣秀吉の九州征伐を助け、秀吉から「その忠義、九州一、その豪勇も九州一」と激賞されます。そして、秀吉から筑後国(現・福岡県南部)に領土を与えられ、柳川城城主となりました。
関ヶ原の戦いでは、徳川家康から東軍に付くよう求められますが、秀吉への恩からそれを拒否。東軍の京極高次が守る大津城を攻め落とすなど戦功を挙げますが、西軍に付いたため、戦いの後に領地取り上げになりました。
しかし、宗茂の名声は広くとどろいていました。宗茂の武将としての力量と人望を耳にしていた徳川第2代将軍・徳川秀忠は、宗茂に謁見(えっけん)。陸奥国(現・東北地方北西部)に領地を与えます。
そして、宗茂は徳川方の将として大坂の陣に参戦。秀忠を補佐し、徳川の勝利に貢献しました。その功により再び柳川に領地を持つことを許され、1643年に生涯を閉じました。
宗茂は秀吉、家康から武将としての能力を高く評価され、戦国武将ファンの間でも「一番強かったのは、実は立花宗茂」との声が上がるほどです。しかし、宗茂は決して特別なことをしようとしたのではなく、普通であることを重んじた人物でした。
あるとき、息子の忠茂(ただしげ)が宗茂に軍法について尋ねました。宗茂は、「特別なことはない。日頃から下の者には子に接するように情をかけ、下の者から親のように思われていれば、下手な命令をしなくても思う通りに動いてくれるものだ」と答えたといいます。
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